【毒親育ち実践ノート】何者かにならなければいけないと思うことをやめる

【何者かにならなければいけないという呪縛】

生時代、私の母は「可能性を広げるため」と言って、私に勉強を強制していました。

やれ弁護士だの、医者だの、学校の先生だの……

知りうる限りの(親にとって)都合のいい職業を私に言って聞かせていたものです。

だからか、私の中には「何者かにならなければいけない」という呪縛が強く残っていて。

専業主婦で子供もできず、何者でもない自分を悲観し、劣等感や罪悪感に襲われることもしばしば。

その「何者か」とは、親の期待そのもの。

そんなもののために落ち込むなんてバカみたいでしょうけど、、

必死に期待にこたえようとしてきたことの「後遺症」みたいなものだと思います。


【人生をあきらめたらポジティブになれた】

分の人生をふり返ってみると、いかに自分が自分の声を無視して生きてきたか、と思うのです。

それだけ、親の期待にこたえようとしてきたのですが、その結果、自分という存在がわからなくなりました。

わけもなく涙が流れ、わけもなく死にたい感情を抱いてしまうくらいに、心を病んでしまいました。

そんな感じで、「何者か」になる前に「自分とは何か」を知らなければ、うまくいきっこありません。

「教育熱心」な親と「教育虐待」の親のちがいは、そのあたりにありそうな気がします。

私がそういうことに気づいたのはアラフォーになってから。

今では「別に何者になれなくても、そういう人生もまぁいいか」と、ある意味「あきらめ」のモチベーションで毎日を生きています。

そう思うようになったら肩の力が抜けて、成功してる人を妬ましく思うことがなくなったし、人生に焦りを感じることもなくなりました。

逆に、人のよかったことを素直に喜べるようになり、自分の学びにつなげていこうと、ポジティブな考え方ができるようになりました。

自分の感じていた「劣等感」や「悲観」が、こんなにも世の中を素直に受け止めることを難しくしていたんだ、と思ったのと同時に、きっと私の親もそのような感情を持って世の中を見ていたんだ、と思いました。


【まとめ】

「あきらめ」とは、「断念する」という意味もありますが、仏教では「あきらかにする」という意味でつかわれるそうです。

私が、「別に何者になれなくてもいい」とあきらかにしたことで、今まで自分を生きづらくしていた「劣等感」や「悲観」を持つ必要がなくなったのかな、と。

その「劣等感」や「悲観」は、親の持つ視点。

それが取っ払われたことで、初めて自分の目で世界を見、自分の考えを持つことができるようになったんだと思います。

何者にもなれなくてもいいけど、せめて自分は自分だと自信持って言えるようになりたい。

そのためには、まだまだ自分で考えて行動するという経験値が私には足りない。

失敗もするだろうけど、それすら学びとして楽しみながら、これからの自分を生きていこうと思います。

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