【考察】毒親育ちと凶悪犯罪の関係

【凶悪犯罪と犯人の生い立ち】

悪犯罪のニュースを見る時、いつも考えるのは犯人の生い立ちについて。

気になったので、近年で世間にショックを与えた事件と、犯人の生い立ちをざっくりとさらってみました。

※以下の内容は、ネットで調べた内容をまとめたものなので、事実と異なる可能性があります。

2022年7月8日 安倍元総理 銃撃事件

犯行当時、犯人は41歳。

父親が亡くなった後、母親が宗教にのめり込み、家庭が崩壊。

宗教への恨みを募らせた犯人が、その宗教に近い関係者として、安倍元総理を銃撃。

2019年7月18日 京都アニメーション放火殺人事件

犯行当時、犯人は41歳。

9歳の時に両親が離婚。

高校卒業後は非正規の仕事を転々としていたが、父親が自殺し一家は離散。

強盗で服役したこともあり、事件前は生活保護を受けていた。

自身の書いた小説を盗用されたと思い込み、京都アニメーションに放火。

2018年6月9日 東海道新幹線車内殺傷事件

犯行当時、犯人は22歳。

幼少時より発達障害の疑いがあったが、両親や親族との関係は良好ではなかった様子。

職場でのいじめがきっかけで引きこもりになり、精神科に入院後、母方の祖母の養子となる。

社会復帰を促されるも、家出を繰り返し、刑務所での生活を自分の理想と考え、新幹線車内でナタとナイフで旅客を切りつけた。

2008年6月8日 秋葉原通り魔事件

犯行当時、犯人は25歳。

幼少期から過度な教育方針の母親に育てられていた。

短大卒業後、職場を転々とする中で、ネット掲示板に依存。

掲示板でのいやがらせをきっかけに、承認欲求にかられた犯人が、トラックで歩行者をはねた後、刃物で通行人を襲撃。

たまたまピックアップした事件がそうなのかはわからないけど、犯人に共通するのは、どうも親との関係がよろしくなさそうだ、ということ。

あくまでも私の想像ですが、凶悪犯罪は、親に守られるべき時に守ってもらえなかった毒親育ちの究極認知の歪みが引き起こしているのではないか、と思うのです。

認知の歪みとは

精神科医アーロン・ベックによる概念で、同じ出来事でも思い込みによって悪い方向に考えてしまう、歪んだとらえ方のこと。


【毒親育ちあるあるの思考のクセ】

罪を許すことは決してできませんが、犯人の生い立ちを考えると、同じ毒親育ち(あくまでも想像上ですが)として、どこかで救うことはできなかったのだろうか、と悲しい気持ちになるのです。

私自身も、下のような毒親育ちにはあるあるの思考のクセ、すなわち認知の歪みがあり、それを矯正するためにいろんな本を読み、実践して今日に至ります。

それが肥大し暴走する時、凶悪犯罪につながってもおかしくないと思うのです。

他責思考

少時代に親の顔色をうかがうことが習慣になってしまうと、自分でとっている行動でもどこかで他人の意見に影響を受けてしまっていることがあります。

だからか、うまくいかなかったら簡単に他人のせいにできちゃうのです。

それは、自分が傷つかないための、ある種の自己防衛だったと思います。

大人になると、親と自分以外に、社会と自分との関係も出てきます。

うまくいかないことは、自分のせいではなく、社会のせいだと考えるようになります。

そうなると、対人関係でもトラブルになりやすい。

社会的に孤立しやすく、そういった不満が犯罪につながってもおかしくありません。

他責思考が強い人は、自己正当化する人、とも言えます。

身勝手な理屈をこねてクレームをつけるような人も、本当は愛されたくてたまらないだけなのかもしれません。

私自身、理屈っぽい子供だったと思いますが、そのことに気づいてちゃんと話を聞いてくれる大人がいたら、こんなにこじれた大人にはならなかったでしょう(たぶん)。


承認欲求への渇望

少時代に愛してもらえなければ、大人になっても、自分で自分の価値を見出すことができません。

私自身、

「男の子だったらよかったのに」

「あんたはバカでドジでマヌケだから」

と言われてきて、思春期を迎えた頃からか、希死念慮を持つなど自己否定的な考え方になりました。

大人になってからも、頑張っても満足感が得られなかったり、他人の何気ない言動に過剰に反応してしまったりで、仕事が長続きしませんでした。

それでも、「自分のことを認めて欲しい」というのが、人間の本能的な願望なんだと思います。

それが歪んだ形で表に出る時、またはそれが叶えられないと絶望を抱く時、凶悪犯罪につながる可能性は十分に考えられます。


孤独感

葉原の事件の犯人には友人の存在もあったのにかかわらず孤独を感じていた、とネットには書いてあります。

幼稚な動機だとか、「かまってちゃん」なんて表現もありますが、私自身は、その孤独感、なんとなくわかる気がします。

私は幼少時代から

「友達なんて信用できないから、一緒に遊ぶ必要はない」

と親から言われ、時には友達の家にまで押しかけられ、勉強するために家に連れ戻されたこともありました。

同級生からは、「もう私とは遊ばない」と宣言され、交友関係の中で人と人との距離感を学ぶ機会を失いました。

おかげで大人になった今でも、どのくらいの頻度で連絡し、会えば「友達」なのか、わかりません。(この一文だけでも問題なのがわかるでしょう。)

だから、おおよそ友達のような顔をしていても、心の中では常に距離感を意識しながらビクビクしている自分がいて。

そんなこと相手に理解されようもないし、周りからは孤独だなんて思われてもないだろうから

「ああ、私は孤独なんだな」

と自覚してしまうのです。

孤独のよくない点は、思考がエスカレートした時に牽制してくれる存在がないということ。

最終的な判断は、自分の良心や倫理観に委ねられることになり、それ自体の醸成もあやしい家庭環境で育った人なら犯罪行為に走ってしまってもおかしくないと思います。


【犬にたとえるともっと顕著】

にたとえるともっとわかりやすいです。

恐怖心をあおるようなしつけをされた犬は、ビクビクしながら人の顔色をうかがうようになります。

愛情不足の犬は精神が不安定になり、自分の尻尾を咬むなど自傷行為をすることも。

社会化期(子犬時代)に他の犬や人とのふれあいが足りなければ、他の犬や人を見ただけで吠えるようになります。

そして、そういう犬は攻撃的だし、パニックに陥りやすい。

人に牙をむく可能性は、適切に育てられた犬よりもはるかに高いです。

適切な子育てがなされないということは、人に牙をむく可能性の高い犬を世に放つのとそうちがいはないのではないでしょうか。

(もし犬にたとえるのを不愉快に感じる人がいたらすみません。私は犬を人間と同じように愛しています。)


【凶悪犯罪を減らすためにできること】

まり、凶悪犯罪を減らすためには、毒親育ちと毒親になってしまう親を1人でも減らすことが必要だと私は考えます。

でも、それは世の中から捨て犬をなくすことと同じように難しい。

だから、一時「毒親ブーム」みたいな言われ方をしたけど、一時的な話題にせず、根深い問題として時々話題にしてもらえたらいいなと思います。

私みたいに「自分は毒親育ちだ!」って気づける人もいるかもしれないし、親自身が、周りの人が、少しだけ気をつけようと思うかもしれない。

そう思ったので、この記事を書きました。

そして、たとえ個人が問題を抱えているとしても、絶望ではなく希望を持っていられる雰囲気を社会が出せるかどうかが大切だと思います。

凶悪犯罪の犯人を「甘えだ」とか「身勝手だ」と切り捨てるのは簡単ですが、そのような人を育ててしまう家庭があり、それを助長させる社会があることを認識しなければいけない。

「こんな犯罪が起こる世の中になっちゃったんだ〜」とネガティブになってあきらめてしまうなら、みんな時代の毒親育ちになってしまいます。

そうならないために、1人1人が希望を忘れないこと、少しだけ周りの人に気をつけてあげること、それだけでも明るい雰囲気を出していけるんじゃないでしょうか。

殺意のある人に殺人を実行させる方法は、誰もその人に話しかけないことだ

上の一文は、ある犯罪心理学者の言葉としてネットに掲載されていたものの、誰の言葉なのかわかりませんでした。

でも、すごく印象に残った言葉だったので、最後にご紹介しておきます。

ほんのちょっとしたコミュニケーションで、犯罪が防げるかもしれないってことですね。

私自身、人付き合いがとても億劫なので、肝に銘じておきます……。

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